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玉紙のルーツ
1500年の伝統を持つ越前和紙のあゆみ



中国での紙の発明、国交の証としての製紙技術の伝来


最も古い紙、というと思い浮かぶのが古代エジプトのパピルスではないでしょうか。パピルスとは、紀元前2500年頃、ナイル河畔の湿地帯に生える植物の茎を縦に裂いて開き、シート状に貼りあわせたもの。古代エジプト人はこれに墨で文字を記録しており、英語のpaperの語源にもなっています。しかし、これは「漉く」という工程を経ていないので、正確には紙とは言えません。
紙は発明されたのは、中国でのこと。紀元前1〜2世紀頃、前漢時代の遺跡から、麻の繊維で作られた紙状のものが発見されており、これが世界で最も古い紙とされています。後漢時代、宮中の語用品製造所の長官だった蔡倫(さいりん)が書写材料の研究を重ね、105年に製紙技術の基礎を確立。これにより紙は量産されるようになり、紙づくりは普及していきます。
日本に紙漉きが伝来したのは7世紀初頭、推古天皇の時代。日本書紀によると、高句麗の僧である曇微(どんちょう)により伝えられたといわれています。発明当初、紙は戦略物質であり、その製法は国家機密として極秘扱いでした。当時の日本は朝鮮半島と交流があり、製紙技術の伝来は国交の証ともいえるものでした。

紙の神様に愛された越前の里。そこが越前和紙の発祥


「日本書記」には610年に製紙術が日本に伝えられたと記録されていますが、実はもっと以前から紙漉きが行われていたと考えられています。それを思わせる伝説の一つが、越前和紙の発祥伝説です。越前和紙の起源は今から約1500年前のある幻想的なエピソードによって語り継がれてきました。それは26代継体天皇がまだ男大迹皇子といわれ越前におられた頃のお話。岡太川の上流に美しい女神が現れ、村人たちに紙の漉き方を伝授します。村人に名を尋ねられた女神は「岡太川の川上に住む者です」と告げると、そのまま姿を消しました。山間で田畑に乏しかった集落の村人たちにとって、紙漉きという営みが生まれたことは実にありがたいことでした。村人たちはこの女神を川上御前と崇め、岡太神社の祭神として祀りました。それはその後、綿綿と続く越前和紙の歴史の幕開け。以後、紙漉きは越前の地に根ざした産業として大きな発展を遂げていくとことなるのです。

大化の改新、仏教の伝来で増える和紙の需要


中国から伝わった製紙技術はボロ布(麻)を原料とするものでした。これは弱くて保存性がなかったため、日本では原料として楮などの靭皮繊維が使われるようになっていきました。楮の繊維は麻より短くて切断しやすく、白くて表面もなめらか。さらに自生植物なので手軽に入手しやすかったため、紙漉きの原料としてはうってつけでした。次第に楮を中心として紙づくりが行われるようになり、改良を重ねるうちに次第に日本独自の紙、すなわち「和紙」が確立していくこととなります。
飛鳥時代になると大化の改新が行われ、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなりました。戸籍や税を記入するために必要となったのが和紙。その結果、紙の需要は大きく増すこととなり、越前でたくさんの紙が漉かれました。
もう一つ、和紙の需要が伸びる背景にあったのが仏教の伝来です。仏教は朝鮮半島を経由して6世紀頃日本に伝えられ、信仰が盛んになるにつれ、写経が行われるようになります。それに伴い写経用紙が数多く漉かれるようになりました。仏教の普及は一方で和紙の普及でもあったのです。

「図書寮」の設置による紙の国産化


本格的な紙の国産化が始まったのは奈良時代のこと。710年の「大宝律令」により、「古事記」「日本書紀」など国史の編集が進められ、それに伴って紙の製造と調達を職務とする「図書寮」が設置されます。図書寮には4人の造紙手がおり、さらに図書寮の下に、山城国において「紙戸」と呼ばれる平民の紙漉き専業家が置かれました。
奈良の正倉院に残されている「正倉院文書」によると、737年(天平9)には美作、出雲、播磨、美濃、越前などが紙の産地として記録されています。さらに「図書寮解」(774年・宝亀5)の記録によると、紙の産地は美作(岡山北部)、播磨、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長門、紀伊、近江の十九ヵ国に及んでおり、紙の生産は次第に各地に広がっていったことが伺えます。
なお、正倉院には西暦730の年号を記した越前和紙が保管されており、蔵書の内容からも当時の越前は全国でも有力な産紙国の一つだったことは間違いないようです。

仮名文字による日本文学が花開いた平安の紙文化


平安時代には写経だけでなく和歌用の用紙としても需要が高まります。平安時代は戦乱がなく、京の都を中心に風雅な文化が花開いた時代。
紫式部や清少納言など女流作家たちが誕生したのもこの頃で、宮廷の雅な暮らしぶりが数々の文学作品を通じて和紙の上に美しい仮名文字で綴られました。しかしまだまだ紙は高級品であり、使用されていたのは貴族など上流階級のみ。[枕草子」には「白き色紙、みちのく紙など得つればこよなうなぐさみて」という一節があり、紙を得る喜びが表現されています。また、貴重品であった紙は贈答品としての側面も持っていました。公家社会では紙を贈り、敬意や謝意を表しました。当時、紙を贈ることは、心を通わすことでもあったのです。

古くから行われていた紙のリサイクル


平安京遷都の直後に山城国にあった紙戸が廃止され、そのかわりに官立の製紙工場として「紙屋院」が設置されます。漉き流しなど日本独自の紙漉き技法が確立、製紙技術は発展しました。紙屋院紙といえば高級紙の代名詞でもありましたが、平安末期には各地の荘園で紙が漉かれるようになり、紙の原材料が不足します。そのため、古紙や半古紙を使った紙の漉き返し、すなわち「紙のリサイクル」が行われるようになります。リサイクルされた紙は旧久の意を表す「宿」から「宿紙」と称され、紙屋院紙は高級紙から古紙再生紙へと変貌を遂げていきます。なお、紙屋院は、中世の南北朝期に廃止され、その役割を終えます。

越前和紙の名を轟かせた「鳥の子紙」と「越前奉書」


武家社会になると、和紙は公用紙として用いられるようになります。この頃にとりわけ重宝されたのが越前鳥の子紙です。鳥の子紙は鳥の卵のような淡い色合いからその名がついたもの。その質の高さは紙の王者と称されたほどです。鳥の子紙の原料は雁皮。耐久性に優れているため、永久保存の必要がある高級の記録用紙に用いられました。
越前鳥の子紙と並んで、越前産地の名を馳せるようになったのが室町時代に生まれた越前奉書です。奉書とは公家・武家の公用紙。楮を原料とした上質の楮紙が主に用いられたことから、奉書紙と呼ばれるようになりました。越前奉書の特色は厚手のふっくらとした紙質。記録によると、1338年、将軍の命令を記す奉書専用の最高級紙が、越前でその名を許され広まったとされています。その後、江戸時代になると越前奉書は幕府の御用紙となります。また、高級浮世絵版画用紙にも活用され、色鮮やかな江戸の芸術が越前和紙に描かれました。

紙づくりが組織化され、越前和紙ブランドを確立


このような優れた和紙を生み出した職人たちは、紙座(組合)を結成します。紙座とは今でいう組合的な組織で、室町時代には大滝寺がその中核を担い、大きな勢力を持つようになります。戦国時代になり織田信長による一向一揆で大滝寺は滅ぼされますが、歴代の領主が紙座を保護。生産販売の独占権を持つようになり、勢力を増していきます。当時の奉書紙には印章が捺され、その印章の使用も紙座が独占。印章は品質の証として、越前和紙のブランド性をゆるぎないものにしていきます。その後江戸時代に入ると紙座は朝廷・幕府・諸大名の御用紙屋に。その品質は幕府の折り紙付きとしての広く認められたのです。

紙幣から建築まで幅広い用途へ


江戸時代、越前和紙が用いられたものに藩札があります。藩札とは江戸中期以降、領主財政の窮乏から一定地域に限定して流通していた紙幣のこと。その後、明治維新を迎えると、明治政府は各藩がそれぞれに発行していた藩札の統合を図るため、統一紙幣である太政官札を発行します。その用紙として使われたのが越前和紙。越前五箇村で太政官札用紙が一手に製造・発行され、全国に越前和紙が流通しました。その後、紙幣は政府の手で作られるようになりましたが、紙幣づくりのため大蔵省印刷局に勤務していた越前の紙漉き職人が、越前の伝統技と西洋製紙技術を融合した新しい和紙を開発します。この紙は三椏を原料にして、溜め漉きして作られた粘り強さが特徴。印刷局にちなんで局紙と呼ばれ、紙幣や賞状、証書、証券用紙など保存性が要求されるものに流用されていきます。
大正〜昭和初期には、襖紙の生産も盛んになっていきます。鳥の子襖紙は美しい漉き模様で知られ、高度な技術が要求されます。その漉き模様はいろいろな風合いを表現。現在もその技術は襖紙や壁紙などに応用されています。

戸籍用紙、仏教の伝播、公文書、芸術作品、紙幣、建築・・・。さまざまに形を変えて私たちの暮らしのすぐそばにあった和紙。和紙の歴史は人間の歴史でもあります。「玉紙」は長年にわたって受け継がれ、発展してきた越前和紙の歴史があればこそ、誕生した和紙。越前和紙に新しい歴史を刻んでいます。